第1話
背中に羽が生えた夜、わたしは彼と空を駆けた
「翼のない妃、だそうね」
雲梯の広間の片隅で、そう囁く声がした。わたしは聞こえないふりをして、顔だけは、まっすぐ前に向けた。
「ねえ。翼がない娘が、空の国で、いったい何ができるのかしら」
「しっ。聞こえてしまうわ」
「聞こえていいのよ。事実なのだから」
わたし、セリア・ヴェントは十八歳。谷間の小国ヴェント家の末娘。今日、空中都市アルシエルに、第二皇子エリオット・アル・アルシエルの妃として、嫁いできた。
そして、雲梯から降りて最初に耳にしたのが、この、他国から来ていた貴婦人たちの囁きだった。
悔しくは、なかった。むしろ、妙に冷静だった。わたしは故郷の崖の上で、鷹と風を相手に育った娘だ。人の悪口くらいで、足元がぐらつくほど、柔らかくは育てられていない。
ただ――それを全部聞いていた人が、一人、すぐ隣にいた。
それが、問題だった。
◇
「……聞かせてしまって、すまない」
雲梯の広間を出た回廊で、エリオット様は、小さく、そう言った。
銀色がかった金の髪、澄んだ空色の瞳、そして背中に折りたたまれた、淡い銀色の翼。噂で聞いていた通りの、美しい皇子だった。ただ、彼の眉間には、今、微かな皺が寄っていた。
「謝らないでください、殿下。あの方々は、事実を仰っただけです。わたしに翼はありません。それは、このアルシエルに来るまでも、そしてこれからも、変わらない事実です」
「……セリア嬢」
「ただ」
わたしは、少し悪戯っぽい声音で続けた。
「事実は事実として、『翼がないわたしに、この国で何ができるか』は、これから、わたしが自分で証明していくことだと思うのです。ですから、殿下が代わりに怒ってくださる必要はありません。あれは、わたしの宿題ですから」
エリオット様は、しばらく黙ってわたしを見つめていた。それから、ふっと力が抜けたように、笑った。
「――君は、思っていたよりずっと、手強い人のようだ」
「褒め言葉と受け取ってもよろしいですか、殿下」
「もちろん。最大級のね」
回廊の窓から、雲海の光が差し込んでいた。わたしたちの影は、並んで、白い石の床に長く伸びていた。その二つの影のうち、一つだけに翼がなかったけれど――わたしはもう、それを恥ずかしいとは思わなかった。
◇
空中都市アルシエルは、残酷なまでに、美しかった。
銀色の塔が雲海に聳え、白亜の回廊が浮遊橋で繋がれ、市場の人々は翼をたたんだまま歩き、急ぐときだけふわりと浮いて移動した。子どもたちは笑いながら、石畳の上を半歩ずつ浮遊して走っていた。重力が、この国の人々にだけ、少しだけ手加減しているように見えた。
わたしはその中を、一歩一歩、自分の足で歩いた。エリオット様は、わたしに歩調を合わせて、ずっと隣にいてくれた。
「殿下。ずっと歩いていて、お疲れではありませんか。翼でお飛びくださっても、よろしいのですよ」
「君が飛べないうちは、私も飛ばない」
エリオット様は、あっさりと、そう答えた。
「殿下」
「二人で一緒でなければ、この国の本当の美しさは、半分しか意味がない。――これは、私の我儘だ。付き合ってくれるかい、セリア」
その言葉を、真顔で、まっすぐ言えるのが、ずるかった。わたしのような翼を持たない娘に、そんなふうに言える人が、この国にいるとは思っていなかった。
わたしがこの人に恋をしたのは、たぶん、その瞬間だった。
◇
それからの二十日ほど、わたしはアルシエルでの日々を、夢中で過ごした。
朝は雲海の上の朝陽を仰ぎ、昼は浮遊庭園で花を摘み、夜は銀色の月明かりに染まる雲海を眺めた。侍女たちは最初こそ遠慮がちだったけれど、わたしが堂々と歩き回るのを見て、少しずつ打ち解けてくれた。宮廷の貴族たちの視線は、相変わらず冷たかった。けれど、その冷たさも、わたしにとっては、故郷の山風と同じくらい、慣れたものになっていった。
エリオット様は、公務の合間に、必ずわたしのそばにいた。思慮深く、穏やかで、そしてやっぱり、ずるい人だった。
「セリア嬢は、なぜそんなに、背筋を伸ばして歩けるのですか」
ある朝、年若い侍女のひとりが、思い切ったように、そう訊ねてきた。
「故郷では、崖を駆けていたからです」
「崖を、駆ける……」
侍女は目を丸くした。この国の人々にとって、「崖を駆ける」という言葉そのものが、遠い異国の呪文のように響いたらしい。飛べるのだから、崖を駆ける必要がない。そういう国なのだ、ここは。
わたしは少しだけ、誇らしい気持ちになった。わたしには、この国の人々が知らない、「地面を蹴る」という喜びがある。そう思うと、翼のない自分のことが、不意に、愛しくなった。
「セリア」
「はい、殿下」
「君の名前を呼ぶたびに、翼の付け根が、微かに疼くんだ」
「……それは、どういう、意味ですか」
エリオット様は、その問いにはすぐに答えず、ただ、遠い目で雲海を見ていた。
◇
嫁いで二十日ほど経った、雲海が桃色に染まった夕方のこと。
宮殿の最上階のバルコニーで、エリオット様は、ようやく、その問いに答えてくれた。
「セリア。私の国には、古い魔術がひとつだけある。『双翼の契約』という」
「双翼の、契約」
「空の国の皇族が、運命の伴侶を見出したとき――その伴侶の背に、皇族と同じ色の翼が、一対、生えてくる。百年以上発動しないこともある、古代の魔術だ」
「……まさか、それが、わたしに」
「確信はない。ただの思い込みかもしれない。けれど、君の名を呼ぶたびに疼くこの感覚は、子どもの頃に伝承で読んだ、あの兆しに、よく似ているんだ」
エリオット様は、わたしの正面に立った。その空色の瞳が、珍しく、揺れていた。
「セリア。確かめさせてほしい。――もし、何も起こらなかったら、笑ってくれ」
「殿下が恥をかかれるなら、わたしも一緒に恥をかきます。平気です、どうぞ」
エリオット様は、ふっと笑って、それから、そっとわたしの背中に手を添えた。古い呪文のようなものを、小さく唱えた。
◇
瞬間、背中に、ほのかな熱が広がった。
痛みではない。むしろ、ずっと欲しかった何かが、やっと戻ってきたような、奇妙な温かさ。次の瞬間、ドレスの絹地を内側から押し上げるように、わたしの背中で、淡い銀色の翼が、ふわりと広がった。
エリオット様の翼と、まったく同じ色だった。
「……えっ」
「セリア」
エリオット様の声は、震えていた。
「双翼の契約が、発動した。君は、政略の妃じゃない。古代の魔術に認められた、私の本当の伴侶だ」
わたしは、振り返って自分の背中をそっと覗いた。淡い銀色の羽根が、夕陽を受けてきらきらと瞬いていた。軽い。けれど、確かな重みがある。ヴェントの女は涙を落とさない――そう教えられて育ったけれど、この瞬間だけは、一滴だけ、落としてしまった。空の上なら、きっと、許されるだろう。
「殿下。わたしは、どうすればいいのでしょう」
「一緒に、飛ぼう」
エリオット様は、涙声で笑った。
「君の最初の飛翔を、私に手伝わせてくれ」
◇
わたしたちは、バルコニーの手すりを蹴って、同時に雲海の上へと飛び立った。
風が、二対の銀色の翼を下から優しく押し上げた。ぎこちなく動かすたびに、羽根がきらめいた。空気の匂いが、地面の上で嗅ぐそれとは、まるで違った。夕陽に焼かれた雲の、甘いような、懐かしいような匂い。
「気持ちいいですか、セリア」
「はい、殿下。――ただ、ひとつだけ、言わせてください」
「何だい」
「今日、雲梯の広間で、わたしを『翼のない妃』と囁いた方々に、少しだけ、お伝えしたいのです」
わたしは、風に逆らって、きっぱりと言った。
「『翼は、生えました』と」
エリオット様は、一瞬きょとんとして、それから、声を立てて笑った。
「――君は、本当に、手強い人だ」
◇
桃色の雲海の向こうで、最初の星が瞬いた。その星を目印に、わたしたちはもう一度、大きく羽ばたいた。
わたしには、まだ分からないことがたくさんあった。百年ぶりに発動した古代魔術の本当の意味。宮廷と他国の貴族たちが、これから「翼を授かった異国の娘」を、どう扱うのか。今日の囁きは、きっと、始まりに過ぎない。
けれど、ひとつだけ、決めていた。
この翼は、古代魔術の力ではなく、わたし自身がこの人の隣に立つと決めた、その意志の形だ。だから、誰にも折らせない。
風がひときわ強く、二人の翼を押し上げた。眼下の雲海が、桃色から紫へと染まっていく。わたしはエリオット様の手をぎゅっと握り、もう片方の手で、自分の背中の翼に、そっと指先で触れた。本物だった。疑いようのない、本物の重みが、そこにあった。その重みは、恐怖ではなく――自由の、重みだった。
空の一番高いところで、星が、また一つ、増えた。わたしの新しい日々は、雲の上の、この風の高さから、始まろうとしていた。