第1話
第1話
誰にも読まれないまま終わった、俺のwikiの話をしたい。
前世の俺は、ソシャゲ『エルデン・テイマーズ』の攻略wiki管理人だった。マイナータイトルだ。同時接続数は最盛期でも四桁。終盤は三桁に落ちた。それでも俺は、毎週水曜の夜に記事を更新し続けた。仕事帰りの電車で下書きを書き、家に帰ってから清書して、午前二時にコミットする。五年間、休まなかった。嫁にも彼女にも縁のない人生だったが、あの五年だけは本気で楽しかったと断言できる。 最後の記事のタイトルは、こうだ。 「霊格の検証スプレッドシート(第七版)」 サービス終了の三日前に更新した、七十二項目に及ぶ裏パラメータ一覧。閲覧数、十四。コメント、ゼロ。俺はブラウザを閉じて、インスタントの味噌汁を飲んで、寝た。翌朝の通勤電車で、俺は眠りに落ちたまま目覚めなかった。 徒労感というのは、不思議なもので、死んでも消えない。
死ぬ直前に見た最後の景色は、通勤電車の吊り革と、窓ガラスに映った自分の疲れた顔だった。電車は遅延していた。スーツの肩から鞄のストラップがずり落ちていて、俺はそれを直す気力もなかった。眠気なのか、ほかの何かなのか、境目がよくわからなかった。 目が覚めたら、赤ん坊だった。 正確には、転生先で六歳になった朝、風呂の水たまりに映った自分の顔を見て「あ」と声が出た。前世で作ったサブアカのテイマーキャラに似すぎていたのだ。俺はその場で笑い出して、母さんを泣かせた。気が触れたと思われた。 村の名前は、ゲーム内の初期スポーン地点と同じだった。 神殿にある鑑定水晶のUIは、ゲームのキャラクリ画面と同じ淡い青色をしていた。 七歳で剣士見習いと喧嘩したときに覚えた技名は、前世で俺が課金して引いたSSRキャラの初期スキルと同じだった。 十歳になるころには、俺は確信していた。 ここはあのゲームの中だ。しかも、サ終直前にこっそり実装された“霊格”仕様が、そのまま生きている世界だ。
徒労感を抱えたまま生き延びた人間に、神様はときどき悪趣味な褒美をくれる。
十五の誕生日、神殿の鑑定水晶は俺の職業を「テイマー」と告げた。村長は五秒固まって、それから気の毒そうな顔で俺の肩を叩いた。 「ユーリ、お前……畑を継ぐか?」 畑はもう兄貴が継ぐことになっている。この国ではテイマーは七職の最底辺で、聖騎士、魔術師、剣士、斥候、職人、農夫、そしてテイマー、の順番で序列が決まっている。「モンスターの餌やり係」と呼ばれ、パーティに入れてもらえることすら滅多にない。俺に残された道は、王都の職業試験場で補助職員の下働き枠に滑り込むことだけだった。 鑑定結果を聞いた母さんは、黙って俺の荷物に干し肉を三日分余計に詰めた。その沈黙の重さを、俺は一生忘れない気がする。ただ、俺は母さんに本当のことを言えなかった。 ――母さん、テイマーは実は最強職なんだ。 そう言ったところで、誰にも通じない。通じるわけがない。前世のwikiの閲覧数十四が、俺の言葉の重さだ。
三日前、俺は村を出た。 試験場までの道のりで、俺は一度も振り返らなかった。振り返ったら、たぶん足が止まる。足が止まったら、たぶん泣く。前世で三十五歳まで独身だった男の涙は、たぶんすごく見苦しい。俺は見苦しい顔で村を離れたくなかった。 試験場に着いてからの三日間は、正直いって地獄だった。受付の女性職員は俺の職業欄を見た瞬間、書類の角で眉毛の位置を隠した。同期のうちテイマー志望は俺を含めて二人しかいなかった。もう一人の志望者は、初日の模擬戦闘訓練で泣きながら棄権した。試験官ガルドは俺を見るたびに舌打ちをした。昼食のパンは固く、水は濁っていて、寝床の藁は前世のどのベッドよりも薄かった。 それでも、俺は焦らなかった。 徒労感を五年熟成させた人間は、三日くらいの冷遇ではびくともしない。
窓からは、西の森が見えた。 三日連続で夜に観察した。毎晩、同じ区画にだけ霧が集まっていた。wikiに書いた出現パターンと完全に一致していた。前世で俺が取ったデータが、二度目の生で裏取りされていく感覚。あれは、たぶん、俺の人生で一番甘い瞬間だった。閲覧数十四の記事が、ようやく一人目の読者を得た、と思った。その一人目は、未来の俺自身だった。 今夜、試験場を抜け出した。 同期の剣士見習いリコには気づかれた。俺の寝床の藁がずれているのを見て、あいつは廊下で俺に声をかけた。「おい、テイマー志望が一人で森に入るとか、自殺志願者かよ」。声に嫌味はなかった。むしろ心配の色が薄く滲んでいた。俺は笑って、頭を下げて、「明日の朝戻れなかったら、試験官に謝っておいてくれ」とだけ言った。 リコは何か言いかけて、やめた。俺の目を見て、何かを察したのかもしれない。
そして、いま、俺は焚き火の前に座っている。
目の前の霧は、呼吸をしている。 白い靄の内側で、銀色の粒が周期的に明滅する。十五秒に一回。前世で俺が書いた攻略wikiの数値と、完全に一致する。 フェンリル個体値、霊格S。 『エルデン・テイマーズ』サービス終了まで、誰一人として野生遭遇できなかった隠しボスが、俺の焚き火を覗き込んでいる。普通の人間にはただの夜霧にしか見えない。現に昼間この森を通った試験場の連中は、ここを「霧が濃いだけの普通の森」としか呼ばなかった。でも俺には見える。見えることを、俺は五年かけて証明した。ようやく、本物の読者の前で、答え合わせの瞬間を迎えている。 「……勘弁してくれ」 自分の声が震えているのが、自分でわかった。手のひらに汗が滲む。十五歳の身体は、こういう瞬間にまだ慣れていない。 だけど、逃げるという選択肢は最初から俺の中になかった。これを仲間にできなければ、俺の転生はたぶん何の意味もない。閲覧数十四のwikiを書き続けた五年間にも、たぶん何の意味もなかったことになる。 それだけは、俺は受け入れられない。
契約のトリガーは覚えている。 相手の“名前”を呼ぶことだ。ただの種族名じゃない。そのモンスター個体が、前世の生で最後に呼ばれていた、たった一つの固有名を言い当てる。それがフェンリルとの契約条件だった。 問題は、俺がその固有名を知らないことだ。 wikiには書けなかった。サ終までにフェンリルと遭遇したプレイヤーは、たぶん世界に数人しかいない。固有名の入力に成功した報告は、ゼロだった。 ただ――ヒントは、ひとつだけあった。 サービス終了の前日、運営の公式生放送で、開発者の一人が酔った勢いで口を滑らせた一言だ。俺はその録画を、前世で三十回は見返した。 『あの子の名前、うちの犬から取ったんすよ』 犬の名前は言わなかった。視聴者からの質問で名前を尋ねられる前に、別の開発者が慌てて話題を変えた。wikiのコメント欄では一瞬だけ盛り上がった。「開発者の犬の名前を特定しろ」というスレが立って、住所までたどろうとした過激なプレイヤーがいて、モデレーターの俺がスレを凍結した。 でも、俺は一つだけ覚えていることがあった。 その開発者が別の配信で、自宅の本棚をちらっと映したときのことだ。背表紙に北欧神話の本が三冊並んでいて、付箋が一枚、うっすらと貼られていたページ――あれはたしか、月を追いかける狼の話だった。ハティ。スコル。そして、その兄弟の父親の名。 俺はずっと、その名前がフェンリルの固有名だと思っていた。思っていただけで、証拠はない。検証する機会もないまま、ゲームは終わった。
焚き火の炎が、一度、大きく揺れた。 霧の中心から、低い、地鳴りのような息づかいが漏れる。肺の底まで冷やすような、けれどどこか懐かしい音だった。前世のヘッドホンで何度も聴いた、あの咆哮の低音だ。間違いない。お前だ。 俺は立ち上がった。膝が笑っていた。 それでも両手を広げて、俺はこの世界で生まれて初めて、本気の声を出した。 「……お前の名前を、当てに来た」 霧が、ほんの少しだけ濃くなった気がした。 その濃さは、怒りなのか、興味なのか、それとも――呼んでほしい、という答えなのか。俺にはまだ判別がつかない。 焚き火の炎が、もう一度、大きく揺れた。霧の中心で、銀色の二対の瞳が細められる。笑ったように見えた。あるいは、待ちくたびれたように見えた。こいつもたぶん、ずっと誰かの読者を待っていたのかもしれない。自分の名前を呼んでくれる、たった一人の読者を。前世のwikiの閲覧数十四のうち、もしかしたら一人はこいつだったんじゃないか、と俺は馬鹿な妄想をする。馬鹿な妄想だけど、いまこの瞬間は、その妄想だけが俺の背骨を支えていた。 閲覧数十四のwikiの、たぶん、最後の更新だ。 今度は絶対に、コメントが付く。