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ハズレ職『言語学者』を引いた、その日から

第1話 ハズレ職『言語学者

第1話

ハズレ職『言語学者

 ――私は、二度、言葉に殺されかけた女だ。

 一度目は、二十六歳の雨の夜。死語の論文を抱えて横断歩道を渡っていた私の頭上で、タイヤが悲鳴を上げた。交差点の白線が、赤く塗り替わっていく感覚だけを、最後に覚えている。抱えていた辞書は、濡れたアスファルトに散らばって、もう誰にも読まれることはなかった。  二度目は、十二歳の春の朝。職能神の石碑の前で、金色の文字に背中から刺された瞬間だ。 「……リリア・ヴェスナー。職能――『言語学者』」  村長の声が、広場の石畳を這うように広がった。宣告というより、悔やみに近い響きだった。直後、私の頭の中で、何かの栓がこぽりと抜けた。雨と、辞書と、白線の記憶。二十六年分の人生が、一気に逆流してくる。 「……っ」  世界が、一瞬、白く染まる。

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 視界が戻ったとき、私は石碑の前に立ち尽くしたままだった。  広場のざわめきは、凍りついたように止まっている。鼻眼鏡をずり上げた村長が、もう一度文字を読み直す。その眉が、みるみる曇っていくのを、私はどこか遠い場所から眺めていた。  広場の隅で、誰かが小さく噴き出した。続けて、押し殺した笑いが、水面の波紋のように広がっていく。同じ年に儀式を受けた子どもたちが、ちらりと視線を交わし、気まずそうに目を伏せた。 「……げんごがくしゃ、って、なあに」  私の後ろに並んでいた幼い少女が、無邪気に母親の袖を引く。母親は慌てて娘の口を塞ぎ、困ったように目を逸らした。  ――ああ、そうか。ここは十二歳の、私の二度目の朝だ。  胸の奥で、私はひどく冷静にその光景を見つめていた。本当なら、もっと泣き崩れるべきなのかもしれない。十二歳の少女として、この世界で「ハズレ職」を引いたのだから。けれど、なぜだろう。涙は出なかった。十二歳の心は震えていたが、その奥で二十六歳の私が、「いや、待って」と静かに首を振っていた。  職能神の儀式は、十二歳になる子ども全員が年に一度、春のはじめに受けるものだ。石碑に手をかざすだけで、生まれ持った適性が金文字となって浮かび上がる。剣士、魔法使い、治癒師、鍛冶師、農夫。どの職にも役割があり、誰もが胸を張って村へ帰っていく。少なくとも、去年までの話だった。  私が引いた「言語学者」は、この村の長い歴史の中でも、数十年ぶりの珍しい職だと聞いたことがある。珍しい、というのは、決して褒め言葉ではない。この国では珍しさは、多くの場合、不運の別名だ。

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「リリア、大丈夫、だから」  兄のカイルが、私の肩を抱き寄せてくれた。十五歳の兄は昨年「剣士」を引き当て、村の誇りになった人だ。その彼が、今は必死に妹の背をさすっている。手のひらの震えが、薄いワンピース越しにもはっきり伝わってきた。兄さまのほうが、泣きそうな顔をしている。 「……兄さま。皆、笑ってる」 「笑ってなどいない。ちょっと驚いただけだ」  嘘だと、二人とも分かっていた。それでも兄は、必死にそう言ってくれた。その不器用な優しさに、私は前世の記憶がなければ、きっと崩れ落ちていた。 「言語学者ってのは、昔の文字を読む職だろう。なあ、村長」  カイルの問いかけに、村長はゆっくりと首を横に振った。 「戦闘能力は、ゼロだ。魔力も、普通以下。読解にだけ補正がつく――そういう職だよ、カイル君」 「……そう、ですか」  兄の声が、かすかに沈んだ。父も母もまだ畑から戻っていない。最初にこの報告を受けるのは兄だ。十五歳の肩に、その役目はあまりに重い。  視線を上げれば、職能神の石碑は、もう何事もなかったかのように沈黙している。千年続く儀式の神聖さが、今朝は随分と重たく感じられた。けれど同時に、奇妙なほどに、軽くも感じた。――だって、私はもう、この儀式の結果より先の答えを、うっすらと知ってしまっている。  広場の端で、幼なじみのミラが、こちらを心配そうに見つめている。去年「治癒師」を授かった彼女は、来週には王都の神殿へ見習いに出る予定だった。ぴかぴかの未来を手にした友と、笑われ者になった私。ほんの半歩の差で、立つ場所がこんなにも違ってしまう。  ミラと目が合いかけて、私はそっと俯いた。今、声をかけられたら、十二歳の私が先に泣いてしまう。二十六歳の私は、そのことだけは避けたかった。  なぜなら――涙は、これからの私の武器に、ひとつも必要ないからだ。

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 前世の記憶は、広場を出る頃には、すでに身体に馴染みはじめていた。  白い蛍光灯の明かり。背の高い鉄製の本棚。机に積まれた論文の束と、革装の辞書と、色あせた羊皮紙の写し。死語ばかりを追いかけて二十六年を生きた、ひとりの研究者の記憶。解読という行為が、どれほど孤独で、どれほど価値あるものか、前世の指先が覚えていた。  崩れかけた碑文の前で、何時間もしゃがみ込んでいた膝の痛み。まだ誰にも読まれていない古文書を開くときの、鼓動の速さ。図書館の奥で埃にむせながら、それでも一字一字を拾い集めていた、あの時間。  それが、ハズレ職、だって?  胸の奥で、小さな火花が散った気がした。

「兄さま。家に、帰りたい」  私の声色が変わったことに、兄はわずかに眉をひそめた。けれど、すぐに優しく頷いてくれた。 「ああ、帰ろう。母さんたちにも、ちゃんと話す」  広場をあとにする私たちの背中に、村人たちのひそめた声が突き刺さる。「可哀想に」「戦えないんじゃ、嫁にも出せない」――そんな言葉たちを、私はあえて振り払わなかった。全部、一つ残らず覚えておくつもりだった。いつか、笑い返すときのために。  村の畦道を、兄と肩を並べて歩く。春先の麦の穂が、風に合わせて静かに波打っていた。去年の今ごろ、この道を歩いたときのリリアは、まだ未来の輝きを素直に信じていたのだろう。兄の隣で、自分もいつか立派な職を授かるのだと、何の疑いもなく。  ほんの一年で、景色の意味は、こんなにも変わるものらしい。

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 家に着くと、兄はそっと私を長椅子に座らせ、水を汲みに井戸へ向かった。扉の向こうで、兄がひとつ、長く息を吐いたのが聞こえた。たぶん、父と母にどう切り出すか、考えているのだろう。その背中を思うと、胸が少しだけ痛んだ。  ――ごめんね、兄さま。もう少しだけ、待ってて。  私はその隙に、居間の奥にある古い書棚へ歩み寄った。  そこには、曾祖父が遺した一冊の古書がある。昔から「飾りの本」と呼ばれていた本だ。表紙には、誰にも読めない文字が刻まれている。父も母も、村長でさえ、この文字の意味を知らなかった。神代文字――千年前に失われた、古代魔法の言葉。  震える指先で、私は表紙に触れた。埃の匂いと、かすかに甘い古紙の香りが、鼻をくすぐる。前世で何百回と繰り返したその仕草を、今世の小さな手が、静かになぞる。 「……読める」  漏れた声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。  曲がりくねった線と点の連なりが、前世の知識と今世の補正の上で、すうっと意味を結んでいく。これは音節文字だ。右から左へ読む。子音に母音記号が付属し、動詞は語尾で活用する――ああ、これは知っている構造だ。前世で追いかけた死語の一つに、骨格がよく似ている。  私はそっと本を開いた。乾いた紙の繊維が、指先にかすかに引っかかる。一ページ目の中央に、たった一行、大きな文字が記されていた。扉の言葉だ。前世の習いでそう呼ばれる、術書の冒頭に置かれる招き言葉。  舌先で、一度、二度、音を確かめる。間違えれば、何が起きるか分からない。けれど、私の身体の奥で、二十六年分の研究者の勘が、静かに頷いていた。 「――『光よ、この指先に宿れ』」  その瞬間。  私の人差し指の先に、小さな白い光が、ぽつりと灯った。  心臓が、どくんと大きく跳ねる。光は蛍のように頼りなく揺れ、けれど確かに私の魔力に応えていた。古代魔法。千年前に失われたはずの、神々の言葉による術。指先から腕を伝って、温かな痺れのようなものが、身体の奥まで染み渡っていく。――そうだ、これだ。前世の私が、論文の中で何度も仮説を立てては、検証できなかった現象。神代文字の音韻と魔力の共鳴。それが、今、私の指先で、ささやかに、けれど確かに起きている。  ――これが、ハズレ職、ですって?  私はそっと笑った。生まれて初めて、この身体で笑った気がした。

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 井戸から戻ってきた兄が、居間に足を踏み入れて、その光景に立ち尽くす。手に持った水差しが、からりと音を立てた。 「リ、リリア……その光は、なんだ」  私は顔を上げ、兄にまっすぐ微笑みかけた。 「兄さま。私、ハズレ職なんかじゃ、ないかもしれない」  指先の光が、ゆっくりと強さを増していく。古い書棚の奥で、ほかの古書たちが、まるで呼応するように薄く震えた気がした。背表紙の文字が、ほんの一瞬、金色にちらりと光ったようにも見えた。 「兄さま。曾祖父さまのこの本、本当は何の本か、知ってる?」 「……いや。ただの飾りの本だろう。誰にも読めない、古い紙の束だ」 「ううん。違うの。これは、魔法の本」  兄が、ぽかんと口を開けた。ハズレ職を引いたばかりの妹が、いきなりそんなことを言い出したのだから、無理もない。私は人差し指の光をそっと掲げ、兄の目の高さに近づけた。光は揺らぎながらも消えず、小さな部屋を淡く照らし続けている。 「村のみんなは、言語学者をハズレ職だって言ったわ。戦えない、魔力も弱い、読むことしかできないって」 「……ああ」 「でも、兄さま。読むことしかできない、って、本当は、どういう意味だと思う?」  兄は答えられなかった。答えの代わりに、私の頭の上に、ごつごつした大きな手がそっと乗せられた。剣を握り慣れた手だ。温かくて、少しだけ震えていた。 「よくは、分からん。分からんが――妹の笑った顔を、久しぶりに見た気がする。それだけは、確かだ」  私は兄の手の重みを感じながら、もう一度、古書の一行目を見つめた。神代文字の線は、もはや私にとって模様ではない。それは声であり、命令であり、世界への鍵だった。  窓の外では、まだ村人たちの話し声が、風に乗って切れ切れに届いてくる。きっと今夜、私の名前は「可哀想なリリア」として、村中の食卓で語られるだろう。けれど、それでいい。今はまだ、それでいい。  ――二度、言葉に殺されかけた女は、今度こそ、言葉で生きてやる。  私の前には、まだ誰にも読まれていない、膨大な言葉たちが眠っている。

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