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森の奥の古書店、文字の変わる本

第1話 森の奥の古書店には、文字の変わる本があるという

第1話

森の奥の古書店には、文字の変わる本があるという

 その朝、棚のいちばん高い段から、本が一冊、ひとりでに落ちてきた。  床板に当たる前に、エルゼ・グリュンは三歩で間合いを詰め、掌でそれを受け止めた。彼女の年の割に、ずいぶんと素早い動きだった。長い灰色の三つ編みが、受け身の勢いで肩から前へ跳ねる。  落ちてきたのは、背表紙に何も書かれていない灰色の薄い本だった。『緑灯舎』の棚の中で、もう何年も眠っていた一冊だ。エルゼはそれを胸の前に立てて、ふう、と息を吐いた。 「また、おまえは早起きだね」  本は答えない。けれど、表紙の革が、掌のなかで人肌のようにほんのり温かかった。この店の本の中には、読む人を自分で選ぶ本がある。そういう本は、客が店の戸を押す前に、ひとりで棚を降りてくるのだ。エルゼは長年の付き合いで、そのくらいは驚かなくなっていた。 「今日の初めの客は、軽いほうだよ」  長椅子の背にいた黒猫のハイネが、尾を立てて言った。声には、人間だった頃の掠れた低音がわずかに混じっている。元は王都の図書館の司書だった猫だ。 「軽い客には軽い本。けれど、この本はずいぶん新顔だね。あんたの棚にいつ入った」 「さて。入れた覚えはないんだけどねえ」  エルゼは苦笑して、灰色の本を長椅子の端にそっと置いた。店の中は、朝だというのに薄暗い。天井までの棚に革表紙の本がぎっしり詰まり、頁の隙間から乾いた花びらや押し葉がこぼれている。青い魔法灯が埃の粒を銀色に浮かべ、鋳鉄のストーブがぱちぱちと薪を弾いていた。外は霧。苔むした看板のランプは、今朝も消えずに灯っている。

 カランと鈴が鳴って、木戸が押し開けられた。 「あの……ここ、本屋さん、ですか」  丸い頬の少女が、薬草籠を背負って戸口に立っていた。裾には朝露が点々と散っている。向かいの村の薬草見習い、ニナだ。何度か森の際で会釈をしたことがある。エルゼはちらりと長椅子の端の灰色の本に目をやって、小さくうなずいた。――この子だ、とその本が言っている気がした。 「本屋でもあるし、そうでないとも言える。お座り。茶を淹れよう」  奥の土間で、素焼きの薬缶を火にかける。カモミールとひとつまみのラベンダー。蒸気が甘く青く立ちのぼり、店先まで流れていく。ニナは落ち着かなげに長椅子の端で、指先ばかり見ていた。小さく爪を噛みかけては、思い出したように手を膝に戻す。  戻ってきたエルゼが木の盆に茶杯を二つ置くと、少女はぽつぽつと話し始めた。薬草見習いを二年続けてきたこと。調合がどうしても真似できず、薬の色がいつも濁ってしまうこと。この前、師匠に静かな声で「向いていないのかもしれないね」と言われてしまったこと。帰り道にわざと遠回りをしたら、霧の中で道を失って、看板の灯が目に入ったこと。 「向いてないって、言われたのが、一番、こたえて」  声の終わりがかすれた。ニナは茶杯の縁を見つめたまま、目を伏せている。  エルゼは長椅子の端から、さっき棚から落ちてきた灰色の本を手に取った。 「これをお貸ししよう。貸し賃は――帰りに、森の南の道で青い実のついたニワトコを一枝、手折ってきてくれたらいい」 「処方箋、ですか」 「処方箋さ。ただし、薬じゃない」  ニナがおずおずと表紙を開いた瞬間、頁の真ん中で、インクが一度、静かに波打った。  波打ったインクは、最初にあった一行を黒い筋に解いてしまい、そのすぐ下に、別の一行を描き直した。エルゼの角度からは、その文字は読めない。そう作ってある。この本は、読む者の心の傷に応じて文字を変える本で、エルゼ自身にすら他人宛ての一節を覗き見ることは許されていない。  ニナの目がその一行に吸いつけられて、頬にさっと朱が差した。 「……これ、わたしの、師匠の」  言いかけて、ニナは口を閉じた。そのまま指の背で目頭を押さえる。涙が一滴、頁の端に落ちかけて――けれど不思議なことに、頁はそれを吸い込む前に乾いた。代わりに、インクの一文字が、ほんの少しだけ濃くなった気がした。 「わたし……もう一度、最初から、やってみます」  エルゼは口の端だけを上げて笑った。 「向いているかどうかを決めるのは、師匠でも、本でもないよ。自分が明日、もう一度同じ道を歩けるかどうかさ。今日の答えは、本じゃなくて、あんたが出したんだ」  ニナは胸に本を抱え、ぺこりと頭を下げて戸口を出ていった。落ち葉を踏む軽い足音が、少しずつ確かなリズムを取り戻して遠ざかっていく。

 足音が十分に遠ざかった頃、エルゼはふと手を止めた。  棚のいちばん下の段で、また別の本がひとりで動いていた。  黒い革表紙の、ずっしりとした一冊だ。背表紙は少しだけ棚からせり出して、床に落ちそうで落ちない、奇妙な角度で止まっていた。そこからは湯気のようなものが細く立ちのぼっている。炎ではない。けれど、エルゼが若い頃に王都で嗅いだのと同じ、紙が焦げていく匂いがした。 「ハイネ」 「ああ、見ているよ」 「今日の次の客は、軽いほうじゃないね」 「ずっと前から、重いほうさ」  エルゼは長椅子の脇に立てかけてある、節くれだった樫の杖にちらりと目をやった。その杖は昔、薬草を掘り起こすための道具だった。だが、握り手の磨り減り方だけは、どうしても薬師のものには見えない。  店の中の本たちが、この一冊にだけは近づかないようにしている気配が、エルゼには分かった。何十年も同じ棚で肩を並べてきた本同士にも、礼儀のような距離の取り方がある。黒革の本は、それを破ってひとりでせり出してきている。本のほうが、客を呼び寄せているのだ。  木戸の向こうで、重い足音がした。ニナのものよりずっと遅く、金属のこすれる微かな音が混じっている。一歩、二歩、止まる。また一歩。登ってきているというより、這うように近づいていた。 「剣の匂いだね」 「しかも、鞘に収まっていない匂いだ」  エルゼは老眼鏡を外し、灰色の三つ編みを肩の後ろに払った。黒革の本に手を伸ばしかけて、けれど、今日は開くまい、と思い直す。この本が自分から頁を閉じているうちは、処方箋を急いではいけない。それが、三十年、本たちと暮らしてきた彼女の作法だった。  代わりに、土間の湯を新しい鍋に移し替え、清潔な布を数枚、盆に並べた。 「鐘が鳴ったら、開けてやっておくれ、ハイネ」 「鐘が鳴る前に倒れたら」 「そのときは、あたしが敷居を越えて出ていくさ」  木戸の鐘は、まだ鳴らない。けれど、棚の黒革の本の表紙に、読めない文字が一つだけ、内側からゆっくりと浮かび上がってきていた。誰かの、古い名前のように見えた。  エルゼは指先でその文字をなぞりかけて、途中でやめた。三十年前、王都の薬師ギルドの仲間が魔女狩りに連れて行かれた冬の夜、ギルドの門に残されていたのは、彼女が調合した薬の瓶だけだった。もしあのとき、瓶の代わりに一冊の本を残していたら、頁の文字は仲間の名前に変わっていただろうか。そんなことを、彼女は三十年経っても時どき考える。 「考えるのはおやめ」  ハイネが短く言った。猫にはエルゼの思考の匂いが、炭のように見えているらしかった。 「今日来るのは、昔の仲間じゃない。別の人間さ」 「分かっているよ」  エルゼは息を吐き、棚から少しだけ離れた。黒革の本は、まだ一文字だけを浮かべたまま、頁を閉じている。本のほうが急がせていないのなら、自分が先走ってはいけない。それが彼女の作法だった。  代わりに、彼女は土間の竈に湯を多めに張り、清潔な布を数枚、盆に重ねて並べた。茶ではなく、傷口を洗う湯だ。長いあいだ使わなかった動きのはずなのに、手は三十年前とまったく同じ順序で動いていた。薬師をやめても、薬師の指は指のままだった。  窓の外では、霧がゆっくりと持ち上がり始めていた。ブナの梢から一滴、雨の残りが看板の板に落ちて、乾いた音を立てる。店の中の本たちは、それぞれの棚で静かに息を潜めているように見えた。ただ一冊、黒革の本だけが、棚からほんの少しだけせり出したまま、こちらを向いている。  森の奥で、重い足音がまた一歩、確かに近づいてくる。金属のこすれる音は、前よりも少しだけ弱くなっていた。歩き手が、そろそろ限界に近づいている音だ。  エルゼは木戸のほうを見たまま、誰にともなく呟いた。 「ランプを絶やさずに三十年、待っていたのは、もしかしたらこの客のためだったのかもしれないね」  ハイネは尾を一度だけ振って、答えなかった。緑灯舎のランプは、霧の向こうに向かって、いつもより少しだけ明るく灯っていた。

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