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森ぎわの鍛冶屋、今日もまた

第1話 第1話

第1話

第1話

朝霧がまだ川面を這っているうちに、ラウルは水車の軸に油を差した。 木の軸は冬のあいだに少しだけ痩せていて、回りはじめの半回転、かすかに高い音を鳴らす。その音を合図に、工房の奥の鞴(ふいご)が、ため息のような長い息を吸いはじめた。 火床の炭はゆうべ落としきらずに灰で覆っておいた分が、底のほうでまだ赤い。ラウルは鉄の火箸でその赤を掘り起こし、上に細い薪を三本だけ渡した。いきなり大きな薪をくべない。火は育てるもので、起こすものじゃない。 三年前まで、王都の鍛冶師組合で若い弟子たちに教えていたのは、そういうことだった。弟子は今、一人もいない。 ラウルは火床の縁に腰を下ろして、土間の土の冷たさを尻の下に感じながら、革の前掛けの紐を結び直した。紐の端はこの三年で柔らかくなっている。革は使う人の手のかたちを覚える。指の太さと結び目の癖を、前掛けはもう完璧に記憶していた。 扉の外で、軽い足音がした。歩幅が狭く、それでいて踏みこみが速い。

「ラウルさん、おはよ」 扉の立てつけの悪い隙間から、ミラが半分だけ顔を覗かせた。赤茶色の髪が左の頬に貼りついている。走ってきたらしい。 「早いな」 「だって、今日は包丁の日でしょ。ブロムのおじさんが来る日」 ラウルは眉を動かさずに、うん、と返した。雑貨屋の末娘のミラは、いつ工房に客が来るかを、ラウル本人より正確に把握している。店先の会話で村じゅうの予定が耳に入るらしかった。ミラは勝手に土間に入ってきて、入口横の木箱の上にちょこんと座った。座る位置はいつも同じ、火の粉がほぼ飛んでこない、それでいて火床がよく見える角度だった。 「今日の火、色がやさしい」 「そうか」 「昨日より、赤がまるい」 ラウルは火箸を持ったまま、火床を見た。そう言われてみれば、そうかもしれなかった。ラウルは返事のかわりに、薪をもう一本、炭の山のいちばん熱い場所を避けて差しこんだ。

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ブロムが来たのは、鐘一つ分あとだった。太い肩で扉を押し開けて、冷えた朝の空気を一緒に連れてくる。腰の麻袋から、白い布に包まれた包丁を一本、カウンターがわりの厚板の上に置いた。 「女房の包丁だ。刃がもう、トマトで滑る」 「見せて」 ラウルは布を解いた。刃は中ほどから先にかけて、光の反射が曇っている。刃先の角度がわずかにつぶれ、片側だけ肉が薄くなっていた。鋼は悪くない。むしろ良すぎた。ラウルは棟(むね)の側を指の腹で軽く撫で、動きを止めた。 この包丁は、ただの包丁じゃない。 刃の鋼の奥に、細い薄緑の筋が一本、走っていた。歌う鉄だ。混ぜ鋼のときに紛れこんだ、ほんの一筋。普通の鍛冶師には見えない量だった。王都の正鑑定士でも、顕微鏡を覗かないと見落とす。ラウルは指で触れた瞬間にわかる。鉄の奥から、ごく小さな鈴のような音が、耳の内側に直接届くからだ。 「どうした」 「いや。いい鋼だ」 「そんなに? 親父のおやじから受け継いだ古物だぞ」 「古物だから、いい」 ブロムは満足そうに笑った。ラウルは笑わずに、包丁を砥石のほうへ運んだ。水に濡らした砥石は、朝の光で青黒く見える。刃を当てる角度を決めるのに、いつもの倍の時間をかけた。薄緑の筋が入った鉄は、普通の角度で研ぐと筋の側だけが減る。筋を生かしたまま、刃全体を均等に研ぐには、砥石に対して呼吸を遅くするしかない。 ラウルは息を吐いた。長い一息を。 ミラが木箱の上から、身を乗り出して見ていた。

研ぎ終えたとき、水車の音が、ほんのわずかに変わった。 回転数ではない。軸から伝わってくる振動の質が、一段、深くなった。ラウルは顔を上げて、砥石の水を切った包丁を布の上に置いた。布地に、ぽつぽつと水滴の跡が広がる。いい包丁は、置いたあとの水の跡のかたちも整う。これはそういう包丁だった。 ブロムが刃に親指の腹をそっと当てた。触れるか触れないかの距離で、親指の表皮が薄く反り、血の玉がひとつ盛り上がった。 「おいおい」 「すまん、言うのを忘れてた」 「もう研いだだけじゃねえだろ、これ」 「研いだだけだ。元々いい鋼だった」 ブロムは眉をひそめて、口の端を持ち上げた。血の玉を親指で拭い、包丁を改めて眺める。刃の曇りは消えていて、朝の光が刃の上を細い川のように流れていた。 「女房に、よろしく言う」 「俺が言われるほどじゃない」 「これで、トマトがまた切れる」 銅貨を三枚、厚板の上に置いて、ブロムは出ていった。扉が閉まる瞬間、ブロムが自分の親指をもう一度見たのに、ラウルは気づいた。見て、首を傾げて、それから歩き出す。何かを考え直そうとして、やめた。そういう首のかしげ方だった。 ミラが木箱の上で足をぶらぶらさせた。 「ラウルさん、いまの、ただの包丁じゃないよね」 「ただの包丁だ」 「嘘だ。わたし、刃の音が聞こえた」 ラウルは振り返って、ミラの顔を見た。嘘をつくときのミラは、必ず語尾を伸ばす。今は伸ばさなかった。ラウルは火箸で火床の炭を一度だけ崩して、返事のかわりにした。

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昼すぎ、村長のハンナが鎌を一本、肩に担いでやってきた。 鎌は柄が半分折れていて、刃のほうにも深い欠けが二つある。石か、骨か、あるいは鉄と当たった欠けかただった。ハンナは厚板の上に鎌をどんと置き、それからラウルの顔を覗きこんだ。 「打ち直せるか」 「鎌だぞ」 「鎌だ」 ラウルは鎌を持ち上げた。片手で重さを計ると、刃の鉄は、こちらも悪くない。北の森の近くで採れた鉄鉱石の、気配がした。歌う鉄ではないが、歌う鉄の遠い親戚のような鉄だった。普通なら、欠けた鎌は新しく打ち直す。でもハンナが持ってきたということは、ただの鎌じゃない。ハンナは元衛兵で、普通の鎌を選ぶ目はしていなかった。 「誰のだ」 「森の小屋に、しばらく前から誰かが入ってる。野宿じゃない、定住の気配だ。その人が、うちの店先に置いていった」 「置いていった?」 「銅貨を五枚つけて。『打ち直してほしい』と書いた紙と一緒に」 ラウルは紙を見せてもらった。文字は丁寧だが、ペン先を立てる癖が妙に強い。一画ごとの終わりに、わずかに払うような跳ねが入っていた。軍人の字でもなく、貴族の代筆家の字でもない。宮廷の刻み文を習った者の手だった。三年前、勇者の剣の鞘の内側に銘を刻んだ、聖女付きの記録官の字。ラウルは一度だけ見たことがあった。 ラウルは紙を火床のほうへ寄せたまま、しばらく動かなかった。 「どうした」 「いや」 ハンナは、それ以上聞かなかった。 ラウルは鎌の刃を、火床の縁に寝かせた。刃先の欠けの奥に、あの薄緑の筋が、ひとすじ、走っていた。 ミラが、声を落として言った。 「ラウルさん、火が笑った」 炭の表面で、赤い色が一度だけ、ゆっくりと波のようにうねった。ラウルはそれを見ていなかった。鎌の刃の奥の薄緑の筋と、紙の上の跳ねた字とを、交互に見ていた。 ハンナが静かに言った。 「お前さんが打つなら、刃は元より上等になる。そういう手をしてるだろ」 「鎌は鎌だ」 「鎌は鎌。それでいい。ただ、この鎌を頼んできた相手は、ただの草刈りに使うつもりじゃないかもしれない」 ラウルは少しのあいだ黙って、火箸の先で炭の位置を整えた。炭は、手を伸ばす前から、ラウルの指の動きを予感していたみたいに、少しだけこちら側へ寄っていた。気のせいだと思いたかった。三年前、勇者の剣を打ち直した夜も、炭は同じふうに寄ってきた。 「打つか」 「打つ」 ハンナは頷いて、腰を一度だけ伸ばした。元衛兵の背筋は、三十年村長をやっても崩れていなかった。 「礼はいらないと言いたいところだけど、銅貨五枚は受け取ってくれ。あの人が、受け取ってほしがってる気がする」 「銅貨は、鉄に失礼がないように受け取る」 ハンナはかすかに笑って、工房を出ていった。扉が閉まるとき、外の光がほんの一瞬、土間の奥まで斜めに差しこんだ。その光の中で、ミラの髪の赤茶が、火床の赤とよく似た色に染まった。

「ねえ、ラウルさん」 「なんだ」 「あの鎌、打ち上がったら、わたしも見ていい?」 「見ていい。ただし、木箱の上から動くな」 ミラは頷いた。頷いたきり、めずらしく口を閉じた。ラウルが鎌の刃を火床の縁に寝かせたのを見て、子供なりに、今から起きることが、いつもの包丁研ぎとは違うことを察したらしかった。 工房の外で、川の水音が少しだけ高くなった。雪解けの終わりに、上流から流れてくる枝が水車に当たる、あの軽い音だった。軸の油が、ようやく朝から馴染んだ頃合いだった。 ラウルは鞴の柄にそっと手をかけた。長い一息を吸うより先に、火床の赤が、自分から迎えにくるように、刃の根元に寄り添った。鎌の奥の薄緑の筋が、耳の内側で、細い鈴の音をひとつ、鳴らした。 その音は、工房の扉の隙間を抜けて、川沿いを下り、誰も歩いていないはずの森の小径の、ずっと奥のほうへ、まっすぐに流れていった。 紙の上の跳ねた字が、ラウルの目の奥で、もう一度だけ小さく揺れて、消えた。

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