第1話
予言の代償
「あなたは、必ずわたくしを愛します」
王宮前の広場、処刑台の足元で、わたくしはその言葉を口にした。
処刑台の上にいたのは、縄を打たれた若い騎士。罪状は「公爵令嬢暗殺未遂の嫌疑」。名を、リオン・ヴェステル。北部ヴェステル子爵家の次男、十九歳。——ただし、彼はまだ、誰も殺していない。三日後に起こるはずの事件の、前倒しの処罰だった。
星詠みの令嬢が「この者が三日後、わたくしに刃を向ける」と予言した。それだけで、この国では人ひとり首を落とせる。わたくし、アイリーン・ファルネーゼの祖母が、そういう法を作ってしまった。
「——お取り消しください、アイリーンさま」
処刑人がわたくしを振り返る。わたくしは、ドレスの裾を摘まみ、一段、また一段と処刑台の階段をのぼった。観衆のざわめきが、潮のように引いていく。呪いの令嬢が、何を言い出すのか。みなが息を殺している。
わたくしは、縄を打たれた青年の正面に立った。赤毛、夏の湖のような碧眼。左の手の甲に、古い火傷の跡。三歳のときに暖炉で負ったと、わたくしの夢は告げていた。
「リオン・ヴェステル。あなたの罪状を、わたくしは取り下げます」
「……なぜ」
「あなたは、必ずわたくしを愛します。三日後のあなたが、わたくしに刃を向けるのは事実です。けれど、あなたはその刃で、別の刺客を斬る。わたくしを庇うために」
ざわめきが、波となって戻ってきた。「予言の書き換えだ」「星詠みの掟に触れる」と、誰かが叫んだ。わたくしは構わなかった。構っていたら、この青年は死ぬ。
「わたくしは、三日前、あなたの死の夢を見ました。何十回も、くり返し見ました。その夢の中のあなたは、息を引き取る直前に笑うのです。『あなたを守れてよかった』と。——その笑顔を、わたくしは、もうこれ以上見たくない」
リオンの瞳が、はっきりと揺れた。怒りでも、恐怖でもない。ただ、見知らぬ道をいきなり示された旅人のような、そういう揺らぎだった。
「……おからかいを」
「からかいませんわ。星詠みは、自分の命を懸けてしか、予言を書き換えられないのです」
わたくしは、処刑人に向き直った。
「この者の罪は、わたくしが肩代わりします。——三日後、わたくしの身に何も起こらなければ、わたくしは掟破りの星詠みとして、自らこの台に立ちます」
処刑人の手が、縄を解くために動いた。けれど、その手は、途中で止まった。なぜなら、広場の奥から、低く、澄んだ声が響いたからだ。
「——取り消しを認める」
第三王子ディラン殿下の声だった。わたくしの、半年前から手紙を寄越さなくなった婚約者。群衆が割れ、白い馬上の王子が、処刑台を見上げていた。その瞳は、相変わらずわたくしを直視してはくれない。けれど、声だけは、毅然としていた。
「星詠みが自らの予言を訂正するのは、三代に一度の異例だ。ファルネーゼ公爵令嬢の申し出を受け入れる。——ただし、三日後、予言が外れた場合、王家は掟に従う」
それは、赦しであり、同時に、わたくしへの死刑宣告だった。わたくしは、深く礼をして、処刑台を降りた。降りる階段の一段目で、ようやく、膝が笑っているのに気づいた。
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離宮の自室に戻っても、指先の震えが止まらなかった。
わたくし、アイリーン・ファルネーゼは、ファルネーゼ公爵家の長女として生まれた。星詠みの血筋——未来の断片を夢に見る一族。八歳のとき、父の愛馬の死を的中させた。十歳のとき、叔母の流産を予知した。十二歳のとき、従兄の戦死を見た。予言は、はじめ畏れられ、次に疎まれ、やがて呪われた。社交界では「呪いの令嬢」と呼ばれる。婚約者の第三王子ディランは、半年前から手紙の一通も寄越さない。「あの瞳に見られると、自分の死期を告げられる気がする」と、誰かに漏らしたと聞いた。
けれど、わたくしが本当に怖いのは、噂ではない。——予言を外すこと。
星詠みに課された掟はひとつ。「予言は、必ず成就させよ」。外した者は、魂の深い部分が欠け、やがて狂気となる。祖母は、最後の三年、ただ星を指差して笑う人になった。わたくしは、その祖母の最期を、自分の未来として見たことが、ある。
そしていま、わたくしは、自分の予言を書き換えようとしている。
(それでも、いい)
銀の盤を磨きながら、わたくしは自分に言い聞かせた。たった一人でいい。わたくしの予言で救われる人が、この世にひとりでもいれば、狂気の中で笑う晩年にも、意味が生まれる気がした。
扉が、小さくノックされた。
「アイリーンさま。ヴェステル家のリオンさまが、面会を求めておいでです」
侍女のルルが、困惑した顔で告げた。わたくしは、磨きかけの銀盤を取り落としそうになった。——処刑台から、まだ二刻と経っていない。
「……お通しして」
リオンは、背筋を伸ばして入ってきた。手には、白い薔薇が一輪。処刑台の足元に咲いていたものだと、わたくしは一目で分かった。
「公爵令嬢さま。助けていただいた礼を、まだ申し上げていません」
「礼は要りません。わたくしは、自分の夢のために、あなたを生かしたのです」
「——では、ひとつだけ、教えてください」
彼は、白薔薇を机の上にそっと置いた。花弁の縁が、まだ土で汚れていた。
「あなたは、ご自分の命を代わりに差し出すと、あの場でおっしゃった。あれは、本気ですか」
わたくしは、咄嗟に視線を伏せた。伏せなければ、この青年の眼に、わたくしの本心まで読み取られてしまう気がした。
「……本気です。予言を外した星詠みは、生きていても、生きているとは言えませんから」
リオンは、長い間、黙っていた。やがて、低く、けれどはっきりと言った。
「では、三日後、私はあなたの傍にいます。命令がなくとも、上官に申請します。予言通りの刺客が現れたら、私が斬ります。——そして、あなたの命も、絶対に、あなた自身の中に残させます」
わたくしは、ゆっくりと顔を上げた。彼の碧眼には、先ほどの困惑はもう無かった。代わりに、驚くほど静かな、覚悟のようなものが、そこに宿っていた。
「……怖くはありませんの。わたくしに関わることが」
「怖いです。けれど、あなたが処刑台の階段をのぼってくるときの顔の方が、私には、もっと怖かった。——あれは未来を見下ろす者の顔ではなく、未来に縋る少女の顔でした」
頬が、かっと熱くなった。わたくしは、祖母の書物の頁をめくるふりをして、その熱を隠した。
リオンが去った後、わたくしは、白薔薇を手に取って、長い間、ただ見つめていた。花弁の縁の土を、指先で、ひとつひとつ払った。——予言は、外さない。必ず、この人を生かす。けれど、代償は、わたくし一人で背負う。
そう星に祈ったのは、生まれて初めてのことだった。祈りは、予言とは違う。祈りには、未来を選ぶ余白がある。わたくしは、その余白が欲しかった。
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三日後の朝が、もう目前に迫っている。
その夜、夢の中の結末が、少しだけ変わった。——リオンは血を流さず、代わりに、わたくしの肩を強く抱きしめていた。そして、抱きしめたまま、小さな声で呟いたのだ。
「あなたも、一緒に生きてください」
目覚めた枕は、涙で濡れていた。予言の夢で泣いたのは、生まれて初めてのことだった。星詠みは、夢の中では泣かない。夢の中のわたくしはいつも、世界の外から運命を見下ろす観測者だったからだ。泣くということは、わたくしが、初めて夢の中で「観測者ではなく、登場人物になった」ということを意味していた。
(予言が、揺らいでいる)
揺らいだ予言は、必ず別のどこかで辻褄を合わせてくる。リオンが無事なら、別の誰かが傷つく。それが星詠みの理だった。予言を口にするという行為は、星の川に小さな石を投げ込むのに似ている。投げた水面には必ず波紋が広がり、遠いどこかの岸辺で、誰かの靴を濡らす。
わたくしは、銀盤を強く握りしめた。手のひらに、予言の星紋が、じわりと浮かび上がった。
「……それでも、わたくしは、この予言を成就させる」
口にして、初めて気づいた。わたくしは、彼に生きてほしいのと同じ強さで、自分自身の未来を、初めて欲しいと願っている。星詠みは、自らの運命を願ってはいけない。けれど、この夜だけは、掟を破ってもいい気がした。
——しかし、わたくしはまだ知らない。処刑台で書き換えた予言の代償を、三日後の薔薇園で、「もう一人の星詠み」が、にやりと笑って待ち受けていることを。