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顔のない令嬢、双子の代役

第1話 身代わりの茶会

第1話

身代わりの茶会

 私には、自分の顔がなかった。  十九年間、鏡を覗くたびに映っていたのは、妹のソフィーの顔だった。同じ輪郭、同じ唇、同じ灰青の瞳。違うのは、内側から滲み出るものだけだった。妹が鏡を見れば社交界の華が微笑み、私が鏡を見れば「ソフィーの影」が俯いていた。  だから、今朝、妹の寝台のそばで「私の代わりに行って」と頼まれたとき、私は、抵抗する言葉を最後まで見つけられなかった。  どうせ私の顔は、最初から、私のものではなかったのだから。  カトリーヌ・デュラン。十九歳。デュラン侯爵家の長女。一歳下の妹と、瓜二つの姉。ブランシュ王国には「双子風」という古い審美観がある。姉妹が同じ顔を持つことを美徳とする、少し歪んだ美意識だ。私と妹はその代表例として、貴族の間で知られていた。──けれど、世間の扱いは、まるで違った。  明るく笑うソフィーは、王都の華。  人前でろくに口もきけない私は、いつも、華の足元の影。  同じ顔を持ちながら、明暗はくっきり分かれていた。私は早くから、自分の幸せを諦めていた。この家で愛されるのはソフィーで、輝くのはソフィーで、嫁ぐのもソフィーなのだと、幼い頃から、自分に言い聞かせてきた。  だから、今日のソフィーの婚約者──隣県の伯爵家の嫡男アレクシ様との初顔合わせも、私は本来、物陰から見守る側の人間のはずだった。  それが、まさか、身代わりに出ろと言われるなんて。

 妹の部屋は、薬草の匂いで満ちていた。  ソフィーは枕に埋もれるようにして横たわり、細い手を私に伸ばしていた。頬は熱で赤く、唇はひび割れ、呼吸は浅い。いつもの持病の発作だった。よりによって、初顔合わせの朝に。 「お姉様のことを、アレクシ様が『ソフィー』と呼んでも、気を悪くしないで」  妹は、掠れた声でそう言った。 「私のふりをして。初顔合わせの印象は、一生の婚姻を決めるのよ。私が寝込んでいると知られたら、きっと破談になる。お父様は──お父様は、それを許さないわ」  父の顔が、ちらりと浮かんだ。  家を継ぐ男子のいないデュラン侯爵家にとって、ソフィーの伯爵家への輿入れは、家の命運を決める賭けだった。もし破談になれば、父の怒りは家中を焼き尽くすだろう。その火の粉は、病身の妹にも、無能と呼ばれ続けてきた私にも、容赦なく降りかかる。 「──わかったわ、ソフィー。安心して、眠りなさい」  私は妹の額の汗を拭い、薄絹のカーテンを引いて、部屋を出た。  廊下の窓に映った自分の顔を、一度だけ見た。ソフィーと同じ顔。けれど表情だけが、今日もいつもと同じで、妹のようには笑えていなかった。

 茶会は、王都の旧園亭で開かれる予定だった。  馬車に揺られながら、私は何度も、妹の笑い方を頭の中で反芻した。頭を少し傾け、唇の端を柔らかく上げ、目元を細めて、鈴のような声で笑う。それが、社交界の愛したソフィーの笑顔だった。私は幼い頃、姿見の前でこっそり真似をしたことがある。一度もうまくできなかった。  今日も、きっと上手くはできない。  それでも、妹のためにやるしかなかった。  旧園亭の奥の温室に通されると、先客が一人、奥の席に座っていた。  黒髪に、落ち着いた灰緑色の瞳。年の頃は二十三。上品な紺のコートを纏い、細身の手は膝の上に静かに組まれていた。肖像画で見たことのある顔だった。けれど実物は、肖像画よりずっと静かな印象で、目元に、どこか、うっすらとした悲しみの色が沈んでいた。  ああ、この人も、誰かに何かを諦めさせられてきた人なのかもしれない。  そんな直感が、一瞬、私の胸を通り抜けた。 「ソフィー・デュラン嬢ですね。アレクシ・ボマルシェと申します」 「──はい。お会いできて、光栄ですわ、アレクシ様」  練習した妹の笑顔を作ろうとした。けれど、半歩遅れた。緊張で声が掠れ、頬の筋肉がうまく動かない。結果、作りかけの微笑みが、中途半端な、どうしようもなく私自身の微笑みになった。  しまった、と思った。  アレクシ様の視線が、一瞬、私の顔の上で止まった。何かを見極めるような、静かな視線だった。 「……どうぞ、お座りください」  私は震える膝を叱咤して、向かいの席に腰を下ろした。紅茶が運ばれてきた。湯気が、二人の間にうっすらとした霞を作った。

 最初のうち、会話は定型文ばかりだった。  最近の王都の気候。共通の知人の噂。流行の茶葉。私はソフィーのふりをして、できるだけ明るく受け答えをしようと努めた。けれど、会話は噛み合わなかった。妹の台詞を真似ようとするほど、言葉の端が空回りしていく。私の口から出る言葉は、どれも、誰のものでもないように、宙を漂って消えた。  アレクシ様は、途中から、少し困った顔をしていた。 「ソフィー嬢」 「はい」 「大変不躾なことを伺ってもよろしいですか」 「……はい」 「あなたは、何のお茶がお好きですか」  予想外の問いだった。  ソフィーの答えは、知っている。妹は決まって「薔薇茶」と答える。華やかで、可憐な印象を残せる答えだ。だから私は、反射的にそう答えようとした。  ──けれど、口から出たのは、別の言葉だった。 「……マロニエの蜂蜜を落とした、濃い目の紅茶が、好きですわ」  言ってしまってから、血の気が引いた。  それは私の好みだった。妹の好みではなかった。身代わりとして、致命的な失言だった。慌てて取り繕おうとした瞬間、アレクシ様の目元が、ふっと、わずかに緩んだ。 「──奇遇ですね。私も、同じです」  彼は、静かにそう言った。 「宮廷の茶会では薔薇茶ばかり出されて、実は、少しうんざりしておりました。──誰もが『その方が華やかでよろしい』と仰るので、私も、長いこと、薔薇茶の方が好きだという顔をしておりました」  その言葉の奥に、ひどく親しみのある響きがあった。  私も、長いこと、好きでもない顔の下で、好きでもない声を出してきたのだから。  胸が、どくん、と鳴った。私は慌てて視線を下げた。 「お嬢さん」 「はい」 「もう一つ、不躾ですが。先ほどあなたの顔を見た瞬間から、ずっと気になっていたのです。肖像画で拝見した『ソフィー嬢』は、もっと華やかに笑う方でした。今日のあなたは、少し違う。──何か、ご事情がおありですか」  見抜かれている。  全部ではないかもしれない。けれど、違和感はしっかり捉えられている。私は、長い沈黙のあと、顔を上げて、アレクシ様の瞳を見た。  嘘を重ねることに、もう、疲れてしまった。妹のふりを、たった数十分しかしていないのに、心の奥で、今朝からずっと何かが、音を立てて軋んでいた。

「……アレクシ様」 「はい」 「恐れながら、申し上げます。今日、ここにいるのは、ソフィーではありません。──私は、姉のカトリーヌです」  アレクシ様の目が、はっきりと見開かれた。 「妹は、今朝、持病の発作で寝込んでしまいました。この茶会を破談にしたくないと泣く妹のために、私が身代わりとして参りました。貴族として、そして人として、最低の振る舞いだと、自分でも承知しております。どうぞ、この場で席をお立ちください。お詫びの仕方は、父が後日、必ず──」 「カトリーヌ嬢」  アレクシ様の声が、私の言葉を静かに遮った。  顔を上げると、彼の瞳は、怒っていなかった。代わりに、何か、ずっと探していたものをようやく見つけたような、そんな奇妙な光を帯びていた。 「私は、姉君がいらしたこと、怒ってはおりません。むしろ、お礼を申し上げたい」 「え……?」 「最初に温室の戸口であなたを見た瞬間から、私は、目の前の方に不思議と惹かれておりました。肖像画を何度も見ていたはずなのに、本物の方が来て、なぜこんなに胸が落ち着くのか、自分でも理由がわからなかった。──今、わかりました」  彼はテーブル越しに身を乗り出した。 「あなたの中途半端な微笑み。濃い紅茶の好み。嘘を重ねられない正直さ。そのどれもが、肖像画の華やかな笑顔より、ずっと、私の心に深く刺さりました」  私は、言葉を失った。  身代わりとして失敗した私を、この人は咎めるどころか、惹かれているとまで言っている。信じられなかった。同時に、胸の奥で、長年閉じ込めていた何かが、音を立てて震え始めていた。 「私は──私は、ソフィーの代わりです。影です。愛されるのは、妹の方で──」 「それは、あなたが決めることではない」  アレクシ様は、きっぱりとそう言った。 「誰を愛するかは、愛する側が決めることです。そしてどうやら、私は今日、その相手を、当初の予定とは別の方で見つけてしまったようです」  温室の硝子越しに、春の日差しが差し込んでいた。  白い蘭の花びらの縁が、光を受けて、薄く透けていた。  私は震える指で紅茶のカップを握りしめた。冷めかけた紅茶の香りが、不意に、世界で最も贅沢なものに感じられた。  ──妹のために犠牲になるはずだった、たった一回の午後。  それが、十九年間ずっと影でいるはずだった私の人生の、最初の反乱の日になるなんて、このとき私は、まだ半分しか信じられていなかった。

 茶会が終わり、旧園亭を出る頃には、陽が傾きかけていた。  アレクシ様は別れ際、私の手の甲に軽く唇を当てた。ソフィーにではなく、カトリーヌに。この違いが、私の体の奥深くで、静かに地鳴りのような音を立てた。 「カトリーヌ嬢。また、お目にかかりたい」 「……それは、ソフィーの代わりとして、ですか」 「いいえ。あなたご自身として、です」  馬車に戻ると、御者が不思議そうな顔で私を見た。今日の私は、出発前とは別人のような顔をしていたのだろう。私は窓の外を見つめたまま、屋敷に帰るまでの道中、ずっと考えていた。  ソフィーに、どう伝えればいいのだろう。  妹を裏切るつもりは、一ミリもない。けれど、アレクシ様の言葉は、もう、私の中から消えない。妹の婚約者になるはずだった男の心を、身代わりで行った姉が奪ってしまうなんて、物語にしても悪趣味すぎる展開だ。  けれど、生まれて初めて、私は、自分のために何かを選びたいと思ってしまった。  屋敷の門が見えたとき、私は深く息を吸った。今夜、ソフィーの部屋に行って、全てを話さなければならない。それがどんなに残酷な話し合いになるとしても。  ──身代わりの茶会は、終わった。  けれど本当の戦いは、妹の寝台の枕元から、これから始まろうとしていた。

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